「結構見所あるとおもうがのう!
・・・まあお前さんはお前さんらしくおやりよ」
張元は穏やかに笑いながら掃除娘に発破を掛ける。
疑問と不安が綯い交ぜになった表情で眉を顰める夕鈴の顔を眺める。
「つーか、以前後宮は王の癒しの場的なこと言ってませんでした?」
「ホッホッホ、王にとってはなー」
朗らかに笑う張元の言葉に、更に顔を曇らせる夕鈴の表情に表れるのは、陛下への好意と純粋な心配。
「王の癒しの場」で行われるという闘争に、陛下が傷つけられる事は本当にないのか、と真っ直ぐな瞳が問いかける。見所がある、と言った張元の言葉には自信なさ気に反発するが、王にとっては癒しなのだと問いに返せば、安堵で瞳を和らげる。そんな風に誠実に他者を思いやれる夕鈴の心根に、微笑ましい気持ちになった。
(呆れるほど正直な娘じゃのう。・・・だから陛下もこの娘を信用するんじゃろ)
療養先で、やっとあの陛下が妃を娶ったと聞いた時は本当に喜んだ。
だが実際に後宮に帰還して李順の小僧に事情を聞いた時は、本気で落胆したのだ。
・・・あの人間不信ともいえる程に他者を拒絶している陛下が、やっと己の個人的な領域に他者を招く事が出来たのだと思っていたのに、喜び勇んで話を聞けば、煩わしい縁談避けの為の「臨時花嫁」だなどと!その瞬間の苛立ちも手伝って、随分としつこく夕鈴に絡んでしまったが結果は悪いものではなかった。
陛下は、王子時代から優れた才を遺憾なく発揮し、賞賛と期待を集めると同時に、数多の敵意も集めていた。
後宮は王の妃達の生活の場であると同時に、幼い王の子供たちも共に起居する場所だ。王の寵愛を争う女たちと、様々な思惑によって生命を掛けた競争に巻き込まれる幼子の姿も、張元はずっと見てきたのだ。その中でも、抜きん出て優秀で、同時に誰よりも熾烈な戦いを勝ち抜いてきた王子だった。
物心つく頃には既に己の立場を理解して、課せられた責任を全うするために努力する姿に感嘆と感心と敬意を覚えた。同時に、成長するに従って、どんどん他者への拒絶を深くする姿に痛ましさと罪悪感も覚えたものだった。
張元は後宮の管理人だ。
誰よりも深く、後宮で起きた事象を知り尽くしている。
つまり、誰よりも詳しく、此処で為された陛下への害意ある干渉を、知っているという事だ。
後宮管理人の職務は、後宮の運営を恙無く行う事である。
王の花嫁達の生活を守り、後宮施設の管理をし、出入りする者達の監視を行う。同時に、王の意向を後宮内に反映させ、それにそぐわない者を排除し王の望む風紀を守る為に居る。そこに、張元の意思は介在しない。・・・例え、張元が個人的に好意を持った妃や王の子供が居たとしても、その進退は王の一存で決められる。王の意向に合わないならば退去を促し、権力抗争を王が咎めないならば目の前でどれほど幼い生命が危機に晒されても介入は許されない。実質的にどうであれ、完全な中立と公平な立場を守らなければ後宮の管理人は務まらないのだ。
幼い王子だった陛下が辺境の地へと送られるまでの間だけでも、どれ程多くの毒物や刺客が送られてきたのかを知っている。その策略を退けるたびに、幼い王子の瞳に他者への不信と警戒が色濃く重ねられていくのを、ただ見ていた。
何度も見てきた光景だ。後宮内では当たり前に行われる闘争とその結果。
けれど、何度見ても慣れたくない、痛ましい光景だった。
それでも後宮の管理人としての己の立場を守って、父王の臣下としてひたすら傍観者に徹した張元には、珀黎翔陛下に直接干渉する事は許されない。幼い珀黎翔王子への感心と敬意より、父王への忠誠を取った張元では陛下の心を融解させる事は出来ない。せめてと妃候補との出会いを設定してみても拒絶され、婚姻に対する意向を探ってみても只管消極的な答えが返るだけの日々に、歯痒さを感じていた。
そんな中で、聞いた陛下の寵妃の噂に感じた喜びは如何ばかりか。
・・・李順の小僧に真相を聞いた瞬間の落胆も比例して大きくなったが。
その落胆を埋め合わせるように半ば八つ当たり気味に夕鈴を試した己の大人気なさを、らしくなく後悔するほど立派な「狼陛下の花嫁」だった。
幼い頃から何でも持っていて、同時に全てを奪われる王の子供の立場を理解しつくした賢い子供だった黎翔。故に、手に入れたものは大事にするが、奪われても失っても己の立場を脅かさない限りは「仕方ない」とすぐに諦めてしまう潔すぎる子供だった。己の命でさえ、万が一失われたとしたら、それは自身の力不足だったのだ、と言う様な姿勢を崩さなかった。
その珀黎翔陛下が、自ら夕鈴を迎えに来て、彼女を傷つけるような事を言ったのではないかと、張元を威嚇した。その瞬間の驚きを、今でも覚えている。
「臨時花嫁」としての役割だけを求めているのなら、そんな手間を掛ける必要も、夕鈴の傷心の理由を気に掛ける必要もない。増してや静かな声音に含まれた本気の怒りなど、見せるはずもないのだ。
・・・・本人が何を言っても、無自覚のままでも、きちんと「狼陛下の花嫁」として必要な役目を果たしているではないか、と。
だから、張元は今日も夕鈴に発破を掛ける。
「ホッホーケンカか!仲が良いのう!!」
先日後宮の闇について少しだけ話したときの不安は何処へやら、今日は妙にぴりぴりしていると思って聞き出
してみれば、昨夜氾大臣の娘についてのことで陛下と口論したと言う。
「ほんっと、あの人女の子の好意を何だと・・・!」
元気良く愚痴を言いながら、瞳に過ぎる不安と罪悪感は、陛下との口論を後悔している為だろう。それでも、氾大臣の娘の想いも斬り捨てられず、どちらに対しても情を傾けすぎて進退に迷っているように見える。
「ほっほっほ
好意も敵意もあの方には同じもんじゃろ」
相変わらず、正直で人の良い娘の心を汲んで、少しだけ陛下の真情を知る切欠を作ってやろうと張元は続けた。
「王は何もかもを持っているから、誰からも求められる。
皆があとからあとから奪いに来るから、いっこいっこを大事に出来ん」
それは、珀黎翔陛下自身の命すら、同じ事。
それを陛下自身が誰よりも知り尽くして、守るために最大限努力しながら、失われた時の事を覚悟している。
「ケンカなんぞできるお前さんが珍しいんじゃぞ?
あの御方はすーぐ何でもはねとばしてしまわれるからのう・・・」
失ったなら、それは陛下自身の力量不足故なのだからと、常に最善と最悪を考える。
陛下の拒絶は、不用意な執着を持って、理性が揺らぐことのないように、全てと適正な距離を置くための自衛手段だ。
そんな陛下が、喧嘩など、他事でならありえないのだと、夕鈴は知らないのだ。ただの「臨時花嫁」でしかないのなら、夕鈴のような腹芸の出来ない小娘一人簡単に煙に巻くことも出来たはずだ。なのに、激昂していたのが夕鈴一人だったとしても、口論と呼べるほどに会話が成立した理由など一つだろうと張元は含み笑う。
(・・・以前、陛下自らの望みで手料理を食したと聞いた時は何の冗談かと思ったが)
他者への警戒と拒絶は、心情的な自衛と同時に、即位した事で王子時代よりも飛躍的に増えた暗殺から肉体を守るための自衛でもある。毒への耐性をつけているといっても限界はある。だから常に自らも毒への警戒を怠らず、目の前で女官が淹れた茶ですらも無警戒に口にする事がない陛下が、夕鈴の作った料理を食べたいと言ったという。
(それほどの信頼と信用の証もなかろうに・・・双方共に無自覚と来ている。・・・若いのう。)
だから、張元は夕鈴を本物の妃にと望むのだ。
「・・・・どちらかだけでも本気で手を伸ばせば、結構簡単に片付く問題じゃと思うがなあ・・・」
張元の言葉を聞いて思うところがあったのか、痛ましげに眉を顰めた夕鈴が不意に用具を片付けて立ち去るのを見送りつつ呟いた。窓の外を見れば日が高い。そろそろ氾大臣の娘が訪れる刻限か。
冷酷非情な狼陛下も、こればっかりは梃子摺っている様子。
「・・・・ふむ。・・・・これは矢張り、わしの出番か!!」
珍しくしんみりと呟いてみたが、段々と歯痒さが高揚に変わる。
陛下と夕鈴が想いあっているのは確実!後は何か切欠でもあればきっと結ばれるに違いない!!これは、後宮管理人として積み上げた経験を今こそ活かす時では?!
「なれば・・・・恒例の冬季休養の時が好機じゃな!!
陛下は余り離宮を好まれてはおらんが、そこは掃除娘をけしかければ・・・!!」
きらきらろ輝く瞳を、まだ見ぬ明るい未来予想図に向けて高笑う張元。
先日まで療養していた離宮はうってつけの場だな、と満足げに頷いて脳裏で計画を立てる。
「待っててくだされ陛下!・・・温泉どきどきハプニング☆で陛下の家庭生活の充実を!!」
うきうきと弾む足音が、人気のない後宮に響く。
・・・・・・・・同時刻、中庭にて繰り広げられる修羅場を余所に、小さな老師の背中だけは楽しげだった。